雑感ハイライト

ブログ全然更新してなかったわ〜い。

4月物理的にも精神的にもけっこう忙しくて、全然文章でのアウトプットする余裕がなかった…。暇な時じゃないと、まとまった文章って書けないんだなあと実感。

文章書くこと嫌いじゃないけどライフワークにはできないなと思う理由はこれで、環境や精神状態の変化に影響を受けず、一定の質を保って継続的にものを書ける人すげーなと思う。

でもせっかく作ったし、単なる思い出記録でもTwitterよりまとめて残しやすい利点があるので細々と続けよ〜。

 

思い出記録といえば…

私は思い出を文章や写真(時々モノ)で余すところなく記録しておきたがるきらいがあるなあとこの間思った。

中学生の頃くらいから、何か楽しいことがあったら帰宅して即とりあえずメモに残すし、ブログはつい描写が細かく冗長になったり写真が多くなりがちだし…楽しかったことを忘れるのが怖いのよね。

あと映画の半券とか買い物でもらったショッパーとかちょっと良いお菓子の包装紙などなど、なかなか捨てられない…。

モノから想起できることってなんだかんだ多いなあと、10代の頃捨てられなかったものを最近整理してると思うんだよね。(だから整理するといいつつ全然捨てられてない)

 

原因は複合的なものだと思うんだけど、一番重いのはこれかなあとこないだ思ったのは、中1の時にそれまでの思い出の品物や写真を自分の意思とは関係なく大量に棄てられてしまったことなのかも。ランドセルとか幼稚園小学校の卒業アルバムとか、工作とか。

自分で決めて捨てるんじゃなく、与り知らぬところで思い出と切り離されるような感覚。仕方ない背景があったし、今までそんなに気にしてるつもりなかったけど、思い返したらなんかすごく切なくて泣きそうにさえなってしまったんだよね。

 

だから人と会った時に起きた何気ない出来事や言葉もなるべく憶えていたいと思うし、現に結構憶えていて「あの時さ~」と話しては「なんだっけ?」「そんなこと憶えてたの?」と言われることも多々なんだけど

ときどき自分は忘れてしまったけど相手は憶えていたみたいなことが起き、相互に思い出の補完をできることもあって、そういう瞬間ってすごく心地いいなあと思うし、それを積み重ねられる人との関係は非常に素敵だと感じている…。

基本、他人に自分のことや自分との記憶を残しておいてもらおうとしてないのかもな。その分自分が責任を負えばいいみたいな…。

 

 

話変わるけど、4月に入ってから指導教員が開講している翻訳の授業に顔を出すようになった。中国の最近のニュース記事やエッセイを音読して、学部生の履修者と一緒に順番に訳出していく授業。

大学の頃も「文学演習」という講義名でこういう授業は沢山受けてきたけど、当時は文学作品や京劇のプロットを読解するのがメインだったので、また毛色が違うものを読めて面白い。

 

何より人と一緒に好きな言語を勉強できる楽しさを久しぶりに味わえていてとても幸せ…。

文学や論文の翻訳は勉強と趣味(?)を兼ねて一人でやることもあったんだけど、全然楽しくなくて。

やっぱり指導を受けることで明確な正解にたどり着けるのがうれしいし、少人数の授業だから複雑な文章はみんなで文法を分解してああでもないこうでもないと話し合うのが楽しいし、上手に訳出している学生をみると素直にすごいなあと思うし。

あと留学経験者として下手な音読や訳出はできないと思っているのか、自分のために翻訳する時よりもかなりの時間をかけて語義や発音を調べるので、とても良い勉強になっている。

 

そのおかげか、こないだオフ会でたまたま中国出身の方と雑談した際にひっさびさにまともに中国語を使ったときも、自分で思ってたより全然話せたのでうれしかった。

(仕事で使えるレベルだよ!と褒めてもらえたので素直に喜んでモチベーションとしている)

やっぱり私は中国語を愛しているし、努力はそこそこだけどそれなりの才能あると思うし(謎自信)、これはおそらく一生ともに生きていく要素なんだろうなと大学生の時から直感的に信じている。

先日ぶじに応募書類を提出した留学の面接でも中国語会話があるみたいなので引き続きお勉強頑張ろう~。

 

 

そんな感じで勉強をちょこちょこしつつ、指導教員にも相変わらず甘やかしてもらっています…。

今週は簡単な翻訳の仕事を任せてくださるとのことなので楽しみ。

 

今後のことは相変わらず留学に行けたら行く!程度しか考えていないのだけど、きちんと翻訳の勉強をしたいなあとはうっすら思うようになってきた。それだけで生きていけるほど太い柱にはならないだろうとは思うけど、こういう自分の好きや得意でできた細い柱を複数立ててやっていくことはできるんじゃないかなあと。

前職で色々あって自分を心底嫌いになって人生がグダグダになった時、自信を取り戻させてくれたり、好きなことをもう一度やってみようと思わせてくれたきっかけが、指導教員が任せてくれた大きな論文翻訳の案件だったんだよね。

当時は体調もまだ最悪に近くて、楽しいもしんどいもよくわからないままとにかく必死に仕上げたんだけど、今思えばあのタイミングだからこそできたことだったし、それがあって今の生活を安寧に送れているので、本当に受けてよかったと思う…。

 

 

そうそう 指導教員といえば、先月なにげなくカミングアウト的なことをしたんだよね。彼女ができたんですよ〜 みたいな。

私のことを家族の次くらいに知っている大人だから、機会があれば言おうかな~と思いつつ、お互い同時期に暗黒期が訪れたりで言えなかったのだけど、なんか暗黒期を脱したのも同じくらいのタイミングだったので、すごく良い機をつかめたと思う。

 

絶対に私を傷つけるような反応はしない自信はずっとあったけど、まさにその通りですごくうれしかったな。

最初に「話してくれてありがとう」「誰にも言わないよ」と言われたのは、そこまで後ろめたかったり隠したい話じゃないのに変なの~、とは思ったけど、それも説明したら納得してくれたし。逆にもうちょっとうしろめたさみたいなものを持ったほうがいいのか?とは思った…。笑

 

学生として指導を受けている時からずっと「文化人類学は人とコミュニケーションをとることが肝要な学問だから、友達やパートナーと向き合って他者や自分について知ることも技量を磨く手段のひとつ」みたいなことは言われていて、「でも私はずっとひとりだと思います…ひとり好きなので…」って返すのが定石みたいな感じだったので、その時のことを思い出したりして。

あと、この年齢まで恋愛はおろか一方的な好意すら表明されたことがないことに起因する自信の無さとか諦めみたいなことについても話せてよかった。

話しながら、これ簡単に溶けるものじゃないし、もしかしたら一生付き合うのかもな〜嫌だな〜でももう自分の一部なのかもな〜って思ったりもした。

指導教員はさっぱりしてて明るくて私とは正反対のタイプなんだけど、惹かれるのは私みたいな内面の男性だと以前言っていたこともあり、ふむふむと聞いてくれたのが嬉しかった。

 

カムアウト的なことをしたのは指導教員で3人目だけど、どれも言って良かった~って思うことができたのは大変よいこと。毎度思うけど、私の周りの人間、理性的すぎでは?

むやみにすべきものでもないとは思うけど、人に言うことで自分を認めたりゆるせたり輪郭が明確になった部分もわりと大きいので、今後も自然に言う機会がちょこちょこあればいいな。

 

そんな最近の雑感でした。