人生に興味あり

ブログは14歳〜21歳くらいまで毎日けっこうしっかり書いていた時期があった。

今でもたまに読み返すとやっぱり頭の中のだだ漏れっていうか読む人のことなど一切考えずただ冗長に書き散らしているだけな感じで、根は変わらんね…と笑ってしまう。

でもここ数年はアウトプットといえばTwitterが殆どで、あの狭いスペースに収まるよう簡潔かつ整然と書くことが癖になってしまったので、こうして久しぶりにだだ広いブログの更新画面に向き合っているとなんだか途方のないきもちになってしまうね…。

そんなこともあり、Twitterと同じくらい推敲してわかりやすく簡潔に書く気概は今のところないです。

 

以下、今日は長々と研究や将来の話。(つまらないよ)

 

今日は元指導教員のお手伝いをしに大学へ。この方には卒業後もお世話になりすぎていて「元」感が一切ないので、以後ふつうに指導教員と呼ぶけど。

私が県外の大学から地元に戻り大学院に入学した当時、先生は30代と大学教員としては比較的年齢が近く、私が初めての院生で、かつ同性だったこともあり、なんだか色々話すようになって。論文もかなり自由に書かせてもらえたから、研究室での思い出といえば人生相談ばかりだったな。

でも今となっては、家族以外にここまで自分のことをさらけ出せる大人がいることはとてもとても有難いと思う。 

 

今日した作業は、先生が昨年実施した聞き取り調査のデータ整理。

テーマは違うけど、自分の修論執筆時のインフォーマントと似た背景を持つ人たちだったので懐かしかったし、状況や背景の違い、事例の解釈を先生とああでもないこうでもないとあれこれ話しながら作業できたのでとても楽しかった。

 

やっぱり私は人の人生というかライフヒストリーにすごく惹かれるなあ。

だから修士では文学部からフィールドスタディーに畑を移したわけだけど、自分が人見知りの口下手ということをすっかり忘れていて、中国人を対象に行った聞き取り調査は稚拙極まりない結果に終わり。笑

言い訳に過ぎないけど ほぼ初対面の人に、外国語で、その人のとてもプライベートな一面を聞くってめちゃ難しいんだね。技法みたいなものはあるけど、結局は相性だとか自分が相手にとって話しやすい雰囲気かどうかも重要だし。優秀なフィールドワーカーは天性の愛され体質を備えていると思う…。

 

そんなヘボ調査から修論を仕上げるのはとてもキツかったし、心底恥ずかしかった。

でも、いざ調査結果を携えてパソコンに向かい、違う国に生まれた誰かの人生の一端に触れ、想像を巡らせ、新しい視座を見つけ出す作業が少しだけ楽しかった瞬間をまだ覚えてる。

 

その楽しさが幸い形になったのかどうなのか、指導教員は今でもたまに私の修論について「調査の解読はうまかった」「あの分析は一理あったよね」と言ってくださる。

話が逸れるけど、私は文学部卒のわりに文学を読むのがめちゃくちゃ苦手で、解釈も周囲の文学オバケと比べて常に並以下だったことが地味に重たいコンプレックスだった。(文学への負い目と憧憬は本気で人生のテーマにしたいレベル)

でも指導教員は「あなたが聞き取り調査の解読を得意とするのは、学部時代に文学作品を解釈する訓練をしてきたからだと思う」と言ってくれていて、その言葉には本当にすごく救われた。ほんとに先生にはいつも心を溶かされてしまう…。

 

で、つまり何が言いたいかというと、私は人とお話しすることは多分に苦手なほうなんだけど、そのくせ人の人生にとても興味があるし、読み解きたいと思っているということ。

 

そして、今日そのことを指導教員になんとなく話した。

今後、(おそらくは中国の)大学院でまた研究をしたいと思っているけど、フィールドワークには自信がないってことも。

これ、多分修士在籍中からきっとずっと言いたかったんだろうなって口にだした時に気づいた。でも、就活や就職や休職や退職を経た今じゃないと言えなかったことも。

あと、やめといたほうがいいって言われるのも怖かったんだろうな多分。

 

でも、先生はあっけらかんといいんじゃない?と言ってくださって(っていうか、「院試の面接のときもそんなこと言ってたもんね~」って言われた。覚えてない。笑)いろんなアドバイスもしてくれた。

日本の大学院も視野には入れてるけど、日本での就職(研究職に限らず)にあたって中国語で論文を書いたって実績は強みになるみたい。

思わずワクワクするような提案もあって、なんとなく希望が湧いてきたけど、だからって今すぐ進学の準備をするには語学力もその分野への素養も足りなさすぎるので、まずはやっぱり現地で語学の勉強+予備調査をしてきたいなと思った。

 

淡々と書いたけど、正直今がここ数年で一番楽しくて幸せ。

 

修士に入る前、私の人生のリーダーたる姉から「研究者になれる人は四六時中そのことについて考えていられる人だけだ」と言われて、尤もだと思った記憶がある。

私は洋服や音楽や猫や旅への煩悩だらけなのも確かなんだけど 生活を根底から揺さぶるような好奇心に襲われるのはあの国や文化や人について考えている時だけで、もう今はこの清潔な衝動に正直でいようって感じがしてる。もしくは一種のあきらめかもしれない…。

 

もちろん悩んでもいる。友達にだったら「好きに生きな~」って平気で言っちゃうくせに、自分のこととなると本当にウジウジしてしまう。

でも今日でだいぶ気持ちが固まったというか、中国語やってれば今の世の中ならなんとか生きていけるだろう!という楽観的着地ができたかな(?)

 

院生時代、修論を「誰に向けて書くか」と問われて言葉に詰まった経験があるけど、この投稿は間違いなく自分に向けて書いたな。2700字弱、ちょっとしたレポート並だ…笑

なにはともあれ、楽しく生きようね。

 

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研究科いち怖い先生と1年間タイマンしてた時の記録。私があまりにばかなので冷たく笑われてばっかりで、でも笑顔が可愛かったので、途中からはいかに笑わせるかに注力してたな…笑

でも「わからない自分」をみとめられるようになったのはこの時間があったから。論語に言う、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す、是れ知るなり。」というやつ。

 

この道をまた歩み始めたとして、あの時ほどの情熱を持って楽しく生きられるのだろうか、とずっと悩んでいたけど、少なくとも今めっちゃワクワクしてるな〜☺︎