ヘムヘムに似てるんだって

今日は地元のマイノリティな方々とゆっくりゆったりお茶をしてきた~。(初めてブログっぽいこと書けてるな!)

もともとはTwitterを通して知り合った方と初めましてのお茶をしばきたいねって話をしていたんだけど、せっかくなら3~4人でワイワイできたらいいねということで、ほうぼうに声をかけてみたら最終的に8人も集まってくれた。輪が繋がり広がる感じ、とても嬉しい☺︎

こういうSNS発信のマイノリティのオフ会的なものは今年に入ってから顔を出すようになったんだけど、単純に友達が増えて楽しいし、「ひとからみた自分」を意識できるようになったのも私にとって良いことだと思う。

 

でも、複数人での会話はいつまで経っても慣れないな~、ていうか慣れなさそうだな~。

みんなの話をボンヤリ聞いて、好きな時に口をはさむことは好き(そういう空気を作ってくれてほんとに有難い…)なんだけど、たまに自分に注目が集まると途端に照れ臭くて上手く話せなくなってしまう。

 

今日もなりゆきで私のしていた研究について話をさせてもらえたんだけど、全然うまく話せなかったしめっちゃモジモジしてしまった…。

なんだろうな。単純に口下手っていうのもあると思うし、自分が好きだったり熱を上げるものの話って難しいよね。相手とはどうしても熱量に差があるわけで、でもその話題も相手のことも大好きだから聞いてほしい、知ってほしいし。そのもどかしさが口調や態度に顕れてしまう感じ。

ただ、今日は聞いてくれた人たちとても真剣に受け入れてくれて、しかもしっかり理解した上で反応してくれたのがすごく嬉しかったな~。ポヤポヤ…。

 

個人的に、自分の知らない話を聞くことはすごく好き。

特に気の合う人とじっくり一対一でそれをやると、一切のストレスなく新しい知見を得られてすごく良いんだよね。

今後は積極的に、サシでの各種しばきにも人を誘ってみようと思う。

 

それでなくても、多分今後しばらくはこうやって突発的に知り合いが集まったり、今の友達がメインに集まる場以外は、積極的にマイノリティのオフ会(を含む複数人での集い)には参加しないかなあ。

私の中ではもう十分に人間関係が広がった感覚があるから、何よりまずはそれをやんわり自分なりに繋ぎとめていきたいし、「自分と同じ人だけが集まっている(と参加者に共通の認識がある)空間」にいすぎることへの不安もあって。

 

最初に参加したオフ会は、セクシュアルマイノリティに関わらずなんとなく社会の周縁者感をおぼえている人が自由に来てくれ~というコンセプト(私はそうとらえたけど違っていたらごめんね)で、それに共感をおぼえたし、そこに集まった人たちもすごく好きになった。

そんな心境に加えて、今のいろいろと混沌な状態(自分の将来のことをあんま決めてないし、新しい人間関係に少しあたふたしている)で「セクマイの女性限定」のオフ会に行ったらきちんと楽しめないかもしれないな、という危惧があるというか。

 

でも、なんだかんだ理由をつけようとしているものの、畢竟、人間関係を広めたり深めたりすることが怖い一面があるのかな。書いてて思った。

一番近い将来では、今年中に半年間とはいえ留学があるかもだし、その後は中国に3~4年コースもあり得る。

 

今後、もっと仲の良い友達や、そこから縁があれば好きな人や恋人もできればとは思っているんだけど…上述したような状況になったら、現実的に自分が大変だったり、そうなってくれた人たちにも大変な思いをさせてしまうんじゃないかと…。

私的には中国と日本の距離なんて誤差レベルだし、一緒に住んでいた人たちが突然その距離感になるならまだしも、その前提で人間関係が始まればそれなりに適応していくんじゃないかなあとか楽観的に考えてしまうけど。

 

なんか、今悩んでいることで行動や気持ちにブレーキをかけるのも何かが違う気がして、納得いく答えを探している感じ。

自分だけの人生を楽しく歩きたい気持ちと、ひとの人生にたとえいっときでも関与してみたい気持ちも同じくらいあって。うーん。

といって、そういう兆し一切ないんだけどね…自分の杞憂具合がいちばん怖いわ。

 

ということなどについて、お茶会を解散したあと急に会いたくなって転がり込んだ友人宅で管を巻いたのであった。

 

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ペンギンに管巻いてるみたいだ…。

たまには文学(前)

 今日もなんかブログを書く気になれた!よっしゃ!

 昨日のブログでTwitterとブログがどうのこうのって言っていたらなんか急に最近SNSからのインプットが過多だなあと思うようになってしまって、思い立ってTwitterを1週間くらい休んでみることにした。もしTwitterをフォローしてくれている人で、何かよからぬことがあったのかと思っている方が万が一いたらごめんなさい。

 たまにDVDの停止ボタンじゃなく一時停止ボタンを押す感覚で現実およびインターネットの人間関係から消えることがあるけど、主には「情報多すぎて疲れた」という理由なのでご心配なきよう…。

 

 ブログ、今までの3ポストすべて中国関連のことで、自分宛のブログとはいえ偏りすぎだなあと思ったので、今回はちょっと話題を文学とかにしてみようと思う。

 文学といっても、主には読書の話かな。

 

 母が述懐するに、私は生まれつき内気だったし、幼稚園生~小学校までは家業の関係で周囲に西洋人のデカい男性(時々女性)が沢山いたので、余計に委縮して絵本や児童書ばかり読んでいる子どもだったそう。

 私の記憶でも、家族が私にかまっている時間はあまりなくて、その代わりにと本であれば望めばいくらでも買ってもらえる環境だった気がする…。

 離れて暮らす父親も本の虫だったから、時々遊びに行くと6歳上の姉ともども書店に放牧されて、好きな本を何十冊と選んで買ってもらうタイムが必ず設けられていたほど。笑

 

 そんな環境だった中学3年生までは、たしかにいろんな本を読んだと思う。(10代に突入すると年相応に軟派な恋愛小説とか買わせようとして、父に苦い顔されたけど。笑)

 でも高校入学後は色々あってパタリと本を読まなくなってしまって。大学も文学部だったけど、殆どは語学の習得に熱を上げて終わってしまい、文学の講義のレポートの出来だってあまり良くなかったし。

 

 自分のどんな雰囲気がそうさせるのか、SNSをやっていると読書好きなイメージを結構持たれるのだけど、そんなわけなので最近おすすめの本とかまったくもって挙げられないんだよね…。

 ただ、上述したように読書を豊富にしていた時期は確かにあって、その頃何度となく読み、そして今でもたまに読み返すほど私の人格を形成してきた本はあるので、おすすめを聞かれた時はそれを答えるようにしてる。

(イメージ寄せていきたいから最近は図書館通いしてるけど…笑)

 

 今日はそれらについて、具体的にどのあたりが自分の人生や生活に響いているのか、改めて確認してみたいと思う。

 以下わかりやすいようにAmazonのリンクを貼るけど、アフィリエイトとかではないです。

 

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

 

 こういう話をするとしたら何を置いても挙げたい一冊。

 

 そして江國香織は、おそらく唯一と言っていい私の「好きな作家」といえるだろうな。(Twitterで「レズビアンは漏れなく江國香織が好き」みたいな声聞いたことあるけどほんとうかな?でも心当たりあってちょっと笑った。)

 「神様のボート」は私にとって初めての江國作品で、文字通り擦り切れるほど読んだ。(当時手に入れた文庫版を今見てみたら、平成16年1月30日第9刷のものだった。)

 大学1年で2週間中国に行った時、何も娯楽がなかろう…と思ってこの1冊だけ持って行ったけど、その期間だけでも10回は読んだはず。

 

 ここでは詳しいストーリーに言及しないけど、初めて読んだとき、とにかく葉子にとっての「あのひと」の精神と思い出、そして何より肉体とセックスへの凄まじい執着が、思春期一歩手前(小学校高学年くらい?)の私にものすごい印象を残していった記憶がある。

 「男の人の体って、この人にとってはこんなに魅力的で忘れられないものなんだなあ…」と(おそらくはもっと拙い感情だけど)思った気がするな。そして「私もいつかこういうふうに思うようになるのかなあ」とも。あんまならなかったね。笑

 その印象が強いのか、その後も江國作品を読むと、それに登場する多くの女性からやや徹底したシスヘテロな印象を強く受けるようになったかな。違うよ~って作品や捉え方があったらぜひ知りたい。

 

 今も明確に影響を受けている部分としてまず印象に残ったのは

私はくり色のフレアスカートの裾をばさばささばきながら、大きな歩幅で海岸を歩く。風がつよい。(新潮文庫版 p.12) 

だと思う。私は普段殆どスカートを穿かないんだけど、秋冬になって風が強くなってくると、きまってこの一節を思い出して、ばさばさと勇ましく歩きたくなってワンピースを着たりする。笑

私たちは昼間でもかまわずお酒をのんだ。あのひとの仕事場である楽器屋の奥で。(中略)そして、音楽について話した。私はたとえばビートルズについてくわしくなり、あのひとはたぶんバッハについて、すこしくわしくなったと思う。(新潮文庫版p.45)

 誰かが誰かと出会って深く関わることで、お互いの世界が広がっていく感覚。今でもそれに対してのあこがれはすごくあると思う。だから私は人と話すのがあまり得意じゃないのに、人といようとすることを諦められないのかもしれない。

 

 静かな恋の狂気だとか、ひとところにとどまることへの恐れだとか、思い出を「箱に入れる」という概念、すごく特徴的だし共感する部分もあったけど、そこまで深くは考えなかったな。今真剣に読み返せば考えちゃうかもしれないけど。

 ひたすらに淡々と過ぎる母娘の日々が蓄積して季節となり、いつの間にか長い年月になっていく感じがとても心地よかった覚えがある。

 

 あとこのブログを書くにあたって少し読み返していたら、あとがきにあった江國さんの言葉にちょっと心が震えた。

海に出るつもりじゃなかった。

誰かを好きになると、いつでもそうです。

(中略)

でも、もしそれが神様のボートなら、それはやっぱり、どこかに舫われているべきではない。 新潮文庫版 p.278)

 人を好きになることが神様のボートに乗って海に出ることだとすれば、時には激しく揺さぶられたり、どこか知らない場所へ漂着したり、逆にどこにもたどり着けず漂い続けることもあるかもしれない。その旅を全然望んでいない時に突然ボートを舫う綱がとかれてしまうことも、もしかしたら。

 そんな航海は時にしんどいけど、それでもどうしようもなく誰かに惹かれた時、そのボートはけっして舫われていてはいけない。旅に出なければならない。今の私にとって、とても力強い言葉だった。

 

 「神様のボート」だけでだいぶ長くなってしまった…。他の作品は結構明確にこの部分が良い!っていうのがあるんだけど、この作品は良くも悪くも沢山読みすぎていてとらえどころがあんまりわかんなかったな。

 

 続きは別の記事で書こうと思うけど、最後にどうしてこんなに好きな本について具に書くのか説明すると、私は人が好きだったり影響を受けた本を読むことを一種の会話だと思っている節があるから。

 

 以前の自分の発言を借りると、好きな人の好きな本を読むことは「その人の心の海を泳ぐようなもの」「時にどんな丹念な対話にも優る会話」「今までいくら会話を重ねていたとしても、完全に別の会話」など…。笑

 とにかく人の好きな本を知ったり読むことが好きで、自分が印象に残った部分についてその人はどう感じたのか想像を巡らせるのも、もちろん直接感想を話し合うことも好き。古本屋さんで1時間くらいで読める短編集や詩集を一緒に選んで、喫茶店でプチ読書会をするのが夢なほど。

 

 私自身にそこまでの好意や関心がある人はおそらくいないと思うけど、たとえば今回取り上げた江國香織の作品を読んだことがある人は少なくないと思うし(後半でも1冊取り上げます)、私の感想や思い出と自分の読書体験を重ねて、誰かが何か思考したり思い返すきっかけになったら面白いだろうなあって。

 一番の目的はやっぱり自分の思考と記憶の整理だけど…。

 

 そんな感じで、後半もバリバリと書きます。

呼吸のしやすい場所

前回の更新から何度もなにか書いてみようと試みたんだけど、なんだか久しぶりに向き合うブログの編集画面が広漠すぎて何を書けばいいのかわからず少し途方に暮れてしまい、前回の冗長極まりない文章を先頭に放置したまんまだった~ 恥ずかし~。

 

昔から考えることが数秒、数分で変わってしまうので、Twitterってそれらを書き留めておくツールとしてはすごく便利。ブログはタイトルをつけるからか、1記事に1テーマという縛りがある感じがして、最近の私にはあまり向いてないのかも。

でも他方でTwitterには「今自分が発言せんとしていることって、自分をフォローしている人全員が好意的に受け止めてはくれないんだろうなあ」という懸念が常にある感じがする。私の場合、特定の他者に向けてのツイートなんて全体の1割くらいで、あとは自分宛に書いているようなものなんだけど、それでももし何か人を傷つけることを言っていたらやだなあとかちょっと思う。とはいえそんなことを気にしていたらキリがないので、結構なんでも気軽に書いては消して楽しんでいるんだけど。

 

その点ブログは「嫌なら読むな」を堂々と言えるところがいいよね。

良い活用方法見つけたいな〜。

 

 

そんな中、久しぶりにひとつ書きたいなあと思うことがあったので更新。

 

最近母親が職場での世間話のなかで「娘が中国に留学するつもりだ(数年前もしたことがある)」ということを話すらしくて、そうすると決まって「(普段の母の話しぶりを聞く限り)すごくおとなしい子みたいだけど、中国なんて住めるの?」と聞かれるそう。

母が私のことを大げさに話しているわけではなくて、実際私はすごく内向的で話すのも下手で、日々邁進するアジアで生き残れるメンタルとか生命力とかあんまりないので、そういう言葉を聞くとショックを受けるというよりは「ほんとだよね…」と納得すらしてしまうほど。

 

そして現に5年前中国に住んでいた時も、結構うんざりしちゃう瞬間は確かにあった。

だけど、どういうわけかあそこにいると精神的に呼吸がしやすいんだよね。(物理的な呼吸は最悪だけど…笑)

 

それは単に外国人として海外に暮らすことの高揚感や特別感がそうさせるのかもしれないし、母語と異なる言語を駆使することである種違う人格になれているのかもしれないし、中国の大味で適当で雑な雰囲気(愛ゆえのdisです)が実は性に合っているのかもしれないし、そのすべてが作用しているのかもしれない。

本当に、大学までアジアへの関心皆無だった自分がよりによって中国に興味を持ち、暮らしたいとまで積極的に思っていることがいまだに謎なんだけど、それが逆に本能的に惹かれていることの説明にもなっている気がする。笑

 

ただ、だからといって中国が好きというわけでは断じてない。(バスで喀痰するおじさん、不潔なトイレ、割り込み、所かまわず喧々囂々なところ、ATMから平気で偽札が出てくるところ、その他たくさん嫌い要素はある…笑)

でも、政治、社会、文化、歴史、環境、友達になった人から道を聞いてきただけの人まで、様々な要素を知ったり経験すればするほどに、それらすべてを包括してひとつの国家を好きか嫌いか断定することなんてとてもできないなって思う。

敢えて言うなら、「興味深い」とか「惹かれる」、そして「呼吸のしやすい場所」としか表現し得ないのかも。

 

でも私が知っている中国は自分が滞在していた2012年~2013年当時のもはや幻像でしかなくて、この5年間でめちゃくちゃ変わったんだろうし、実際変わったよ~ってすごく言われる。

今後自分がどういう風に生きていくかは正直まだ決めきれていなくて、それを見定めるために今回の留学を考えたんだけど、何にしろ一生あの国とは向き合っていこうとは思ってる。

そしてそうして生きていく以上、現地を見ないで語ることはすごく失礼だと思うから、この留学のチャンスはぜひとも手にしたいな。

 

正直、一旦は中国について研究はおろか知ったり考えたりすることからも離れていた自分が、またちゃんとあの国で生きていけるのだろうか…って不安も大きい。

だけど大学1年で初めて短期留学をした時、周りがバタバタ倒れていく中で1度もお腹を壊さなかった私に尊敬する先生がかけてくれた「〇〇は中国で生きていける人だね」という言葉(長期留学の時も胃腸だけは無事だった笑)と、

前職を辞めるか悩んでいた時に母がかけてくれた「〇〇ちゃんは100人の人がこなせることはうまくできないかもしれないけど、その100人が到底できないことをできる唯一の人だと思う」という言葉を信じて頑張りたいな。

 

以下は、できれば変わっててほしくない愛すべき中国像。

 

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ハリボテマーメイド。後ろの「禁止遊泳」がいい味出してる。

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やる気0の野外遊園地

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輪投げの景品がすごい

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着ぐるみと写真撮るとお金取られる

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坏=故障中

人生に興味あり

ブログは14歳〜21歳くらいまで毎日けっこうしっかり書いていた時期があった。

今でもたまに読み返すとやっぱり頭の中のだだ漏れっていうか読む人のことなど一切考えずただ冗長に書き散らしているだけな感じで、根は変わらんね…と笑ってしまう。

でもここ数年はアウトプットといえばTwitterが殆どで、あの狭いスペースに収まるよう簡潔かつ整然と書くことが癖になってしまったので、こうして久しぶりにだだ広いブログの更新画面に向き合っているとなんだか途方のないきもちになってしまうね…。

そんなこともあり、Twitterと同じくらい推敲してわかりやすく簡潔に書く気概は今のところないです。

 

以下、今日は長々と研究や将来の話。(つまらないよ)

 

今日は元指導教員のお手伝いをしに大学へ。この方には卒業後もお世話になりすぎていて「元」感が一切ないので、以後ふつうに指導教員と呼ぶけど。

私が県外の大学から地元に戻り大学院に入学した当時、先生は30代と大学教員としては比較的年齢が近く、私が初めての院生で、かつ同性だったこともあり、なんだか色々話すようになって。論文もかなり自由に書かせてもらえたから、研究室での思い出といえば人生相談ばかりだったな。

でも今となっては、家族以外にここまで自分のことをさらけ出せる大人がいることはとてもとても有難いと思う。 

 

今日した作業は、先生が昨年実施した聞き取り調査のデータ整理。

テーマは違うけど、自分の修論執筆時のインフォーマントと似た背景を持つ人たちだったので懐かしかったし、状況や背景の違い、事例の解釈を先生とああでもないこうでもないとあれこれ話しながら作業できたのでとても楽しかった。

 

やっぱり私は人の人生というかライフヒストリーにすごく惹かれるなあ。

だから修士では文学部からフィールドスタディーに畑を移したわけだけど、自分が人見知りの口下手ということをすっかり忘れていて、中国人を対象に行った聞き取り調査は稚拙極まりない結果に終わり。笑

言い訳に過ぎないけど ほぼ初対面の人に、外国語で、その人のとてもプライベートな一面を聞くってめちゃ難しいんだね。技法みたいなものはあるけど、結局は相性だとか自分が相手にとって話しやすい雰囲気かどうかも重要だし。優秀なフィールドワーカーは天性の愛され体質を備えていると思う…。

 

そんなヘボ調査から修論を仕上げるのはとてもキツかったし、心底恥ずかしかった。

でも、いざ調査結果を携えてパソコンに向かい、違う国に生まれた誰かの人生の一端に触れ、想像を巡らせ、新しい視座を見つけ出す作業が少しだけ楽しかった瞬間をまだ覚えてる。

 

その楽しさが幸い形になったのかどうなのか、指導教員は今でもたまに私の修論について「調査の解読はうまかった」「あの分析は一理あったよね」と言ってくださる。

話が逸れるけど、私は文学部卒のわりに文学を読むのがめちゃくちゃ苦手で、解釈も周囲の文学オバケと比べて常に並以下だったことが地味に重たいコンプレックスだった。(文学への負い目と憧憬は本気で人生のテーマにしたいレベル)

でも指導教員は「あなたが聞き取り調査の解読を得意とするのは、学部時代に文学作品を解釈する訓練をしてきたからだと思う」と言ってくれていて、その言葉には本当にすごく救われた。ほんとに先生にはいつも心を溶かされてしまう…。

 

で、つまり何が言いたいかというと、私は人とお話しすることは多分に苦手なほうなんだけど、そのくせ人の人生にとても興味があるし、読み解きたいと思っているということ。

 

そして、今日そのことを指導教員になんとなく話した。

今後、(おそらくは中国の)大学院でまた研究をしたいと思っているけど、フィールドワークには自信がないってことも。

これ、多分修士在籍中からきっとずっと言いたかったんだろうなって口にだした時に気づいた。でも、就活や就職や休職や退職を経た今じゃないと言えなかったことも。

あと、やめといたほうがいいって言われるのも怖かったんだろうな多分。

 

でも、先生はあっけらかんといいんじゃない?と言ってくださって(っていうか、「院試の面接のときもそんなこと言ってたもんね~」って言われた。覚えてない。笑)いろんなアドバイスもしてくれた。

日本の大学院も視野には入れてるけど、日本での就職(研究職に限らず)にあたって中国語で論文を書いたって実績は強みになるみたい。

思わずワクワクするような提案もあって、なんとなく希望が湧いてきたけど、だからって今すぐ進学の準備をするには語学力もその分野への素養も足りなさすぎるので、まずはやっぱり現地で語学の勉強+予備調査をしてきたいなと思った。

 

淡々と書いたけど、正直今がここ数年で一番楽しくて幸せ。

 

修士に入る前、私の人生のリーダーたる姉から「研究者になれる人は四六時中そのことについて考えていられる人だけだ」と言われて、尤もだと思った記憶がある。

私は洋服や音楽や猫や旅への煩悩だらけなのも確かなんだけど 生活を根底から揺さぶるような好奇心に襲われるのはあの国や文化や人について考えている時だけで、もう今はこの清潔な衝動に正直でいようって感じがしてる。もしくは一種のあきらめかもしれない…。

 

もちろん悩んでもいる。友達にだったら「好きに生きな~」って平気で言っちゃうくせに、自分のこととなると本当にウジウジしてしまう。

でも今日でだいぶ気持ちが固まったというか、中国語やってれば今の世の中ならなんとか生きていけるだろう!という楽観的着地ができたかな(?)

 

院生時代、修論を「誰に向けて書くか」と問われて言葉に詰まった経験があるけど、この投稿は間違いなく自分に向けて書いたな。2700字弱、ちょっとしたレポート並だ…笑

なにはともあれ、楽しく生きようね。

 

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研究科いち怖い先生と1年間タイマンしてた時の記録。私があまりにばかなので冷たく笑われてばっかりで、でも笑顔が可愛かったので、途中からはいかに笑わせるかに注力してたな…笑

でも「わからない自分」をみとめられるようになったのはこの時間があったから。論語に言う、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す、是れ知るなり。」というやつ。

 

この道をまた歩み始めたとして、あの時ほどの情熱を持って楽しく生きられるのだろうか、とずっと悩んでいたけど、少なくとも今めっちゃワクワクしてるな〜☺︎

 

思考のだだもれブログ

考え事のメモ的にとりあえず何か思いついたらTwitterアプリを開いて書きなぐることはとても便利だったけど、どうせならまとまった文章にしたほうが日本語の訓練になるし編集もしやすいよな〜って感じで、久しぶりにブログをやってみようと思った。

でもやるんならどの程度まで自分のことを開示するか、どの範囲の知り合いにまでURLを教えるのかとかきちんと考えてから作ろうと思ってたんだけど、結局深夜の考え事が止まらない時間にとりあえず作成してしまった。

 

好きな服や靴や音楽のこと、好きな人たちのこと、好きな場所のこと、今している勉強のこと、学生時代の研究対象だった中国や、個人的に癒しの地である台湾のこと、そして何よりこれら全てに当てはまらない取るに足らない考え事についてだだ漏らせていけたらいいな。

Twitterでもポストするだけで満足しちゃった文章は消しがちだけど、ここでもたくさん編集したり書き足したり消したりすると思う。

 

中国といえば こないだふと気づいたんだけど、初めてあの国に足を踏み入れて今年で10年になるみたい。

当時は高校2年生。まさか10年後の今もこんなに中国に焦がれて(???)いるとは周りの誰も、ほかでもない私自身も、想像していなかっただろうな。

 

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故宮かな〜ここ。