たまには文学(前)

 今日もなんかブログを書く気になれた!よっしゃ!

 昨日のブログでTwitterとブログがどうのこうのって言っていたらなんか急に最近SNSからのインプットが過多だなあと思うようになってしまって、思い立ってTwitterを1週間くらい休んでみることにした。もしTwitterをフォローしてくれている人で、何かよからぬことがあったのかと思っている方が万が一いたらごめんなさい。

 たまにDVDの停止ボタンじゃなく一時停止ボタンを押す感覚で現実およびインターネットの人間関係から消えることがあるけど、主には「情報多すぎて疲れた」という理由なのでご心配なきよう…。

 

 ブログ、今までの3ポストすべて中国関連のことで、自分宛のブログとはいえ偏りすぎだなあと思ったので、今回はちょっと話題を文学とかにしてみようと思う。

 文学といっても、主には読書の話かな。

 

 母が述懐するに、私は生まれつき内気だったし、幼稚園生~小学校までは家業の関係で周囲に西洋人のデカい男性(時々女性)が沢山いたので、余計に委縮して絵本や児童書ばかり読んでいる子どもだったそう。

 私の記憶でも、家族が私にかまっている時間はあまりなくて、その代わりにと本であれば望めばいくらでも買ってもらえる環境だった気がする…。

 離れて暮らす父親も本の虫だったから、時々遊びに行くと6歳上の姉ともども書店に放牧されて、好きな本を何十冊と選んで買ってもらうタイムが必ず設けられていたほど。笑

 

 そんな環境だった中学3年生までは、たしかにいろんな本を読んだと思う。(10代に突入すると年相応に軟派な恋愛小説とか買わせようとして、父に苦い顔されたけど。笑)

 でも高校入学後は色々あってパタリと本を読まなくなってしまって。大学も文学部だったけど、殆どは語学の習得に熱を上げて終わってしまい、文学の講義のレポートの出来だってあまり良くなかったし。

 

 自分のどんな雰囲気がそうさせるのか、SNSをやっていると読書好きなイメージを結構持たれるのだけど、そんなわけなので最近おすすめの本とかまったくもって挙げられないんだよね…。

 ただ、上述したように読書を豊富にしていた時期は確かにあって、その頃何度となく読み、そして今でもたまに読み返すほど私の人格を形成してきた本はあるので、おすすめを聞かれた時はそれを答えるようにしてる。

(イメージ寄せていきたいから最近は図書館通いしてるけど…笑)

 

 今日はそれらについて、具体的にどのあたりが自分の人生や生活に響いているのか、改めて確認してみたいと思う。

 以下わかりやすいようにAmazonのリンクを貼るけど、アフィリエイトとかではないです。

 

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

 

 こういう話をするとしたら何を置いても挙げたい一冊。

 

 そして江國香織は、おそらく唯一と言っていい私の「好きな作家」といえるだろうな。(Twitterで「レズビアンは漏れなく江國香織が好き」みたいな声聞いたことあるけどほんとうかな?でも心当たりあってちょっと笑った。)

 「神様のボート」は私にとって初めての江國作品で、文字通り擦り切れるほど読んだ。(当時手に入れた文庫版を今見てみたら、平成16年1月30日第9刷のものだった。)

 大学1年で2週間中国に行った時、何も娯楽がなかろう…と思ってこの1冊だけ持って行ったけど、その期間だけでも10回は読んだはず。

 

 ここでは詳しいストーリーに言及しないけど、初めて読んだとき、とにかく葉子にとっての「あのひと」の精神と思い出、そして何より肉体とセックスへの凄まじい執着が、思春期一歩手前(小学校高学年くらい?)の私にものすごい印象を残していった記憶がある。

 「男の人の体って、この人にとってはこんなに魅力的で忘れられないものなんだなあ…」と(おそらくはもっと拙い感情だけど)思った気がするな。そして「私もいつかこういうふうに思うようになるのかなあ」とも。あんまならなかったね。笑

 その印象が強いのか、その後も江國作品を読むと、それに登場する多くの女性からやや徹底したシスヘテロな印象を強く受けるようになったかな。違うよ~って作品や捉え方があったらぜひ知りたい。

 

 今も明確に影響を受けている部分としてまず印象に残ったのは

私はくり色のフレアスカートの裾をばさばささばきながら、大きな歩幅で海岸を歩く。風がつよい。(新潮文庫版 p.12) 

だと思う。私は普段殆どスカートを穿かないんだけど、秋冬になって風が強くなってくると、きまってこの一節を思い出して、ばさばさと勇ましく歩きたくなってワンピースを着たりする。笑

私たちは昼間でもかまわずお酒をのんだ。あのひとの仕事場である楽器屋の奥で。(中略)そして、音楽について話した。私はたとえばビートルズについてくわしくなり、あのひとはたぶんバッハについて、すこしくわしくなったと思う。(新潮文庫版p.45)

 誰かが誰かと出会って深く関わることで、お互いの世界が広がっていく感覚。今でもそれに対してのあこがれはすごくあると思う。だから私は人と話すのがあまり得意じゃないのに、人といようとすることを諦められないのかもしれない。

 

 静かな恋の狂気だとか、ひとところにとどまることへの恐れだとか、思い出を「箱に入れる」という概念、すごく特徴的だし共感する部分もあったけど、そこまで深くは考えなかったな。今真剣に読み返せば考えちゃうかもしれないけど。

 ひたすらに淡々と過ぎる母娘の日々が蓄積して季節となり、いつの間にか長い年月になっていく感じがとても心地よかった覚えがある。

 

 あとこのブログを書くにあたって少し読み返していたら、あとがきにあった江國さんの言葉にちょっと心が震えた。

海に出るつもりじゃなかった。

誰かを好きになると、いつでもそうです。

(中略)

でも、もしそれが神様のボートなら、それはやっぱり、どこかに舫われているべきではない。 新潮文庫版 p.278)

 人を好きになることが神様のボートに乗って海に出ることだとすれば、時には激しく揺さぶられたり、どこか知らない場所へ漂着したり、逆にどこにもたどり着けず漂い続けることもあるかもしれない。その旅を全然望んでいない時に突然ボートを舫う綱がとかれてしまうことも、もしかしたら。

 そんな航海は時にしんどいけど、それでもどうしようもなく誰かに惹かれた時、そのボートはけっして舫われていてはいけない。旅に出なければならない。今の私にとって、とても力強い言葉だった。

 

 「神様のボート」だけでだいぶ長くなってしまった…。他の作品は結構明確にこの部分が良い!っていうのがあるんだけど、この作品は良くも悪くも沢山読みすぎていてとらえどころがあんまりわかんなかったな。

 

 続きは別の記事で書こうと思うけど、最後にどうしてこんなに好きな本について具に書くのか説明すると、私は人が好きだったり影響を受けた本を読むことを一種の会話だと思っている節があるから。

 

 以前の自分の発言を借りると、好きな人の好きな本を読むことは「その人の心の海を泳ぐようなもの」「時にどんな丹念な対話にも優る会話」「今までいくら会話を重ねていたとしても、完全に別の会話」など…。笑

 とにかく人の好きな本を知ったり読むことが好きで、自分が印象に残った部分についてその人はどう感じたのか想像を巡らせるのも、もちろん直接感想を話し合うことも好き。古本屋さんで1時間くらいで読める短編集や詩集を一緒に選んで、喫茶店でプチ読書会をするのが夢なほど。

 

 私自身にそこまでの好意や関心がある人はおそらくいないと思うけど、たとえば今回取り上げた江國香織の作品を読んだことがある人は少なくないと思うし(後半でも1冊取り上げます)、私の感想や思い出と自分の読書体験を重ねて、誰かが何か思考したり思い返すきっかけになったら面白いだろうなあって。

 一番の目的はやっぱり自分の思考と記憶の整理だけど…。

 

 そんな感じで、後半もバリバリと書きます。